小魚千佳と東京メトロ東西線


 満員電車。それは現代日本における戦場の一つである。東京の都心へ向かう電車は、平日の朝なら、おそらくどれも漏れなく混んでいるに違いない。

 いわゆるベッドタウンに住む少女、小魚千佳は、生まれて初めての満員電車を体験中だった。朝の七時五十六分、千佳の住む最寄り駅に、電車は定刻通りに来た。初めての朝ラッシュということで、心配してついて来てくれた姉に、思わずこう訊いてしまった。

「え、これに乗んなきゃいけないの?」

 高校生活の第一日目。入学式に向かうべく電車に乗る必要が当然あるわけだが、千佳の目には、乗れるようには見えなかった。車内には人の群れ。怖い。比較的小柄な自分なら、無理矢理入ることはできるかもしれないが、比較的小柄な自分ゆえ、ぺちゃんこにされてしまいそう。

「乗りましょう」

 ちなみに姉はこの春に大学を卒業し、就職して会社員になった。職場へは下りの電車で向かうため、一緒に満員電車に乗ることはない。

「一本見送った方がいいんじゃ……」

「十本は見送る羽目になるんじゃないかな。頑張ってね。友達できるといいね」

「サラリーマンばっかだよ? 同じ年代の友達の方がいいかな、って思うんだけど……」

「友達作るのは高校生活でだよ! ファイト!」

 姉に背中を押され、電車に乗り込む。まだそこまで圧迫感はなく、面食らったものの、これならなんとか毎日乗れるかな、と千佳は考えた。

 駅に着く度に、降りる人はほとんどいなく、たくさんのスーツが乗り込んでくる。その都度、千佳は車両の中程へ中程へと押し込まれる。乗車率は上昇する一方だ。

 座っている人も立っている人も、皆一様にスマホをいじっているか、目を閉じている。千佳が昔に父から聞きかじった知識では、サラリーマンは通勤中のわずかな時間を活かして新聞(主に日本経済新聞)を読む生き物なのだが、そのような人は一人もいない。昔の話だから今とは時代も違うだろうし、何より物理的に新聞を広げることなど不可能そうに思えた。

「次は、門前仲町。門前仲町です」

 地下鉄に揺られること、およそ三十分。あらかじめ乗換案内で調べておいた時間をいくらかオーバーして、門前仲町駅に電車が着く。ここは千佳が降りる駅ではないが、事前の調査では、乗換客が多いこの駅で、多少の人数が降りるため、ここからは混雑が若干改善されるらしい。

 運よく千佳の前に座っていたサラリーマンが、腰を上げた。千佳はそこに素早く座る。すみません。ごめんなさい。こんな若者が我先にと座ってしまって申し訳ないです。でももう限界なんです。もうこんな時間の電車には乗りませんから、今日だけ見逃してください。あと二駅ですけど、どうか座らせてください。

 座ったことにより多少の余裕を取り戻した千佳は、あらためて他の乗客の様子を見てみる。みんなやっぱり、くたびれているように見える。これから一日が始まるというのに、とてもじゃないが生気がある表情には思えない。自分もせっかくの入学式で、高校生活が始まるということで気分は良いはずなのに、かなりブルーだ。目の前のサラリーマン二人なんかは、揺られる度にお互いの身体が当たって、どちらも眉を顰めている。

 んっ、と痰が絡んだような不快な咳払いが聞こえる。相当に苛立っている様子だ。

 こんな時は気分を変えよう。千佳にとって、今日はせっかくの入学式なのだ。中学からの知り合いは一人もいなく、不安要素も大きい。そんな時、ふと千佳はお弁当のことを思い出した。

 千佳は小学校も中学校も、近所の公立出身だ。当然お昼ごはんには、給食を食べていた。給食が出ない日もあって、時々お弁当を持たされることもあったが、高校に入ったら給食は出ない。お弁当を用意するも購買に行くもコンビニで買って持って行くも自由だ。今日は入学式なので、学校は午前中で終わる予定だが、千佳は朝早くから起きて、お弁当を用意していた。午後も部活動をいろいろ見て回ろうと、画策しているからだ。

 千佳がこれから通う汐留総合高校は、一学年が十五クラスもある、都内最大のマンモス校だ。それゆえ部活の種類も非常に多い。自分に合う部活があるかどうか、心ゆくまで探してみる心構えだ。

 そのためのお弁当。中学を卒業してからの春休み、あることがきっかけとなり、千佳は料理に目覚めた。それまで料理なんてしてきたことがなかったが、春休みの間は積極的に台所に立っていた。家族はおいしいと言ってくれるし、千佳自身も多少の自信をつけていた。

 少し気を落ち着かせよう。カバンの中からごそごそと、千佳は魔法瓶を取り出す。

「……さっきから当たってるんだけど?」

 目の前のサラリーマンが、不機嫌そうにそうこぼす。満員電車、それはお互い様だろう。

「……別にわざとじゃないんだから、ちょっとぐらいガマンしてくださいよ」

 千佳は揺れる車内の中、零さないように慎重に、魔法瓶を開け、中身を器に少しよそう。パスタの茹で汁から作ったスープだ。

 パスタを茹でる際には、お湯に対して1%強の塩を入れている。1リットルに対し十グラムが、いろいろなレシピに書かれていることが多い数字だが、味のインパクトが薄いように感じられる。試行錯誤の末、千佳はこの数字に辿り着いた。今日はソサルト社の粗塩を使ってみた。わざわざ親に頼み込んで、シチリアから取り寄せてもらった。とはいっても、今はネット通販を使えば簡単に買えるものだ。

 今朝はガルガネッリを茹でたので、汁にも卵の味がほんのりと移っている。スープにこだわる余裕はなかったので、市販のコンソメと余ったレモンの皮で味をつけただけの、簡単なものだ。風味づけに黒コショウとセージをわずかに加えている。

 器に出したのは少しだが、それでも十分な香りが漂う。まず鼻で楽しむが、いかんせんここは満員電車。不快な気分をすべて吹き飛ばすほどの威力はない。実際そこまで香りの強いものであれば、平時の食事時ではいかんせん強すぎる。

 ゆっくりと器に口を付ける。口の中に広がる、淡い塩味とコンソメの味。十分に美味しいが、いかんせんコンソメの人工的な味が舌に残る。もう少し改善の余地がありそうだ。朝からじっくりとスープに掛かりきる余裕はないから、これは前日の晩に仕込んでおこうか。

「満員なんだから、人に当たらないようにちゃんと踏ん張れよ。あんまり度が過ぎるようだと……ん、なんかいい匂いするな」

「ホントですね。何の匂いだろ?」

「……ま、お互い気をつけような」

 手早く蓋を閉め、魔法瓶をカバンにしまう。そろそろ降りる駅だ。わずか二駅だけとはいえ、座ることができてよかった。こうして一口だけ、体力回復、気分転換もはかることができたし。

「次は、日本橋、日本橋です」

 高校に向かうには、ここで乗り換える。千佳は人ごみをかきわけ、なんとかホームに降りることができた。あらかじめ三号車に乗れていたので、目的の乗換ホームへの道はすぐに見つかった。

「…………」

 日本橋でかなりの人数が降りたので、電車に残った二人のサラリーマンは、お互いに遠ざかる。そしてふと思った。お昼は丸亀か日高屋に行くことが多いけど、今日は五右衛門にでも行こう、と。

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