紅い宝石の意


「いらっしゃいませ」

 仕事帰りに寄ったお店の扉を開くと、いつもの聞き慣れた低い声。すっかり常連となってしまった私は、この声を耳にすると、なんだかほっとする。

「カウンターの、いつもの席。空いてますか?」

「はい、よろこんで」

 勝手知ったる人の店。今日は私の他にも何人かのお客さんがいるが、会話が時折小さく聞こえてくるだけだ。私はあまり詳しくないが、店内には落ち着いたクラシックの音楽が掛かっていて、それも耳に心地良い。少し高い椅子を引いて、腰を下ろす。隣の席も引いて、通勤バッグを座らせ、その上にコートも脱いで丸めて置いてしまう。……どうせ誰からも見えやしないんだから、ヒールも脱いでしまおうかしら。

「……生ビール、一杯」

「かしこまりました」

 職場の飲み会で出てくるビールは嫌いだ。ビールがというか、そもそもああいう飲み会は、嫌い。同期だけだとか、歳が近くて仲良しの先輩や後輩たちと行くなら、喜んで参加するんだけど。忘年会や歓迎会だったり、上司にふと誘われたり、プロジェクトのキックオフで取引先と接待のような宴席を設けられたり。そういった酒の席には辟易する。

「どうぞ」

 一杯のビールが私の前に置かれる。

「ありがとうございます」

 透明なガラスに手を触れると、冷たさが伝わってくる。今日みたいな寒い日でも、この温度は不思議と苦に感じない。

 口をつけ、ほろ苦い液体を喉に流し込む。社会人になってから、この飲み物を美味しいと感じるようになった。なってしまった。学生の時は、甘いお酒しか飲めなかったのに。

 手を洗った後はアルコール消毒、なんてよく聞くけど、あれって何でだったっけ? ウイルスとかを殺すんだっけ? そういうのはお酒なんかより、もっと純度の高いアルコールが必要なんだろうな。

 でも心の中のことなら、きっとお酒で充分。飲んでいる間は、嫌なことを少しは忘れられる。少し、だけど。

 ――――




「高島さん、何であんなこと言っちゃったの?」

 今日の昼過ぎ。取引先での打ち合わせを終えた私は、同行していた営業の先輩に、そう切り出された。

「あんなこと、とは?」

「納期の話。火曜日には間に合います――って言ったけど、もっと工数積んでよかったんじゃない?」

 私たちの会社はいわゆるIT企業で、先ほどまでとあるwebサイト作成の案件の打ち合わせをしていた。本来は今日が納品予定日だったのだが、仕様変更を言い渡され、取引先に出向いたのだった。

「聞いた感じ、そこまでインパクトの大きい変更じゃなかったですし。カラム追加の影響範囲も、サービスクラス一つしかないですよ。変更後の画面レイアウトは先方が明日の朝イチで送ってくれるそうですし、問題ないですよ。結合試験のデータ入力パターンと、検証端末は、本来の予定から少し省略させてもらって、見積もりを作ろうと思ってます」

 この案件のお客様は、幸いにも自社から歩いて行ける範囲。電話でああだこうだ話すよりも、こうして直接出向いて、顔を突き合わせて話した方が断然早い。

「まあ、僕を同行させたのは、なかなかいい手だったと思うよ」

 仕様変更。この業界において、なかなかに怖い言葉である。作っているものに対して、「ここはやっぱりこうしてほしい」と、後出しで言われるのだから。ましてや今回は、既に実装まで完了しており、納品前の結合試験中だったのだ。無茶を言っているのは、お客様の方。

 とはいえ「ウチは言われたとおりに作りました」と、追加要求を聞き入れずに納品するわけにもいかない。今回の仕様変更はマストで対応しなければいけない事項で、本番リリースの日付は決まっているのだ。せめてということで、対応する代わりにその分の追加工数はお金を頂戴します、と言ってきた次第だ。

 今日中に設計を終え、金曜と月曜で実装、火曜にテストを完了させれば、十分間に合うはず。

「馬鹿正直に話さなくて良かったのに。もっと利益を出せるチャンスだったんだからさ。ぼったくれとは言わないけど、もっと工数積めば良いのに。こっちが主導権握れたんだからさ」

 最少の工数で対応できれば、お客様の心証だって良くなるはずなのに――




 ――――

 という話を、営業からはもちろん、上司からもされてしまった。もっとスマートな手段も覚えろ、と。

 ビールをもう一杯注文する。アルコールが少し回り、頭がくらっとする。

「それは……難儀なことですね」

「そうですよね。まっすぐ馬鹿正直に仕事しちゃダメなんですかね? あ、マスター。何かオススメください」

 気付けばまだお酒しか飲んでいなかった。追加で注文をする。

 しばらくして、掌ほどのサイズのお皿を一枚、私の前に出してくれた。鮮やかに赤く光る、マグロのお寿司だった。

「マグロの寿司言葉は、『まっすぐ前へ進め』です。お客さん、確かまだ就職して二年目、って前に言ってましたよね? そういうズル賢い方法を覚えるのは、もっと後になってからでもいいじゃないですか。周りから期待されているから、そういうことを言われたんでしょうけど、今はきっと、がむしゃらに自分なりの最善を探して、まっすぐに仕事に取り組む時期だと思いますよ」

 醤油を数滴垂らして、寿司を口に入れる。その優しさに、目には微かに涙が浮かんだ。

「スイマセン、ちょっとワサビが強かったですかね」

「いいえ、そんなことないです。ありがとうございます」

 その言い回しに、思わず笑ってしまう。

「お客さん、笑顔の方が素敵ですよ。さ、何でも食べてください。回ってないネタがあったら、言ってくれれば握りますから!」

 仕事帰りによく寄る、行きつけの回転寿司。たぶん今日も閉店まで、マスターに話を聞いてもらうんだろうな。

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