「――ごう。おい、2号!」
ふいに大きな声を耳が感知し、あたしはこの世界に戻された。視界に飛び込んでくるのは、同じような服を着た若い人たちの後ろ姿と、その彼らの前に立つ、当人よりほんの少し――本当は『少し』なんて言い方はふさわしくないとは思うけど、ここでは控えめに表現しておく。後が怖いので、『かなり』ではなくて、『少し』――だけ頭が身軽な、スーツに身を包んだ男性だ。
「何ぼーっとしてんだ? 早く前来て答えを書け」
ゆっくりと、今を思い出す。
三十分ほど前までは、確かにこの世界にいた。机の上にある教科書と、辞書とペンケースを持って、この選択教室に来た。そして授業が始まって、先生の言ってることがぜんぜん理解できなくて、ついていけなくなって、――それから考え事を始めて、世界に別れを告げてたんだ。
そこは確かにあたしの世界だったけど、あたしの住むべき世界じゃない。現実逃避は悪い癖。分かっているけど、なかなか直らないな。
立ち上がって黒板の前へと進み、書かれている内容と格闘を開始する。
『2. a (
さっぱり分からない。教科書の練習問題か何かなのかな。
「……もういい。席に戻れ」
呆れられたように、先生にため息を吐かれてしまう。あたしは言われたとおりにまっすぐ戻って、その時にひとつ前の席に座っていたショートカットの女の子と目を合わせる。
お互いに苦笑い。「やっちゃったよ」「また授業聞いてなかったんでしょ」とアイコンタクト。
「じゃあ1号、頼む」
席に着いた後で、その女の子は立ち上がり、あたしの歯が立たなかった問題に、いとも簡単に攻撃を仕掛けてみせる。まるでゲームの中の世界の、呪文の詠唱のように、深い緑の黒板に白い字を走らせる。
『2. a ( Nein, ich habe keine Brueder.
教科書を見てみると、そこには『Haben Sie Brueder?』などと、訳の分からないアルファベットが並んでいた。彼女の攻撃が通用したのかどうか、あたしにはさっぱりだ。
「うん。よく出来たな、1号」
どうやら一撃必殺だったらしい。あたしとはまるで違う。そして彼女の勝利を祝うように、ファンファーレのごとくチャイムが鳴り響いた。
「じゃあ、今日はここまでな」
あたしの前に座っていたその女の子、1号こと一未亜(にのまえ みあ)は、照れたようにはにかんだ。
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