不健康な人達 02


 その日の放課後も、谷口は一人教室で本を読んでいた。

「……谷口」

 谷口はこちらに顔を向けた。まぁ、呼びかけられたら振り向くのは当然の反応だよな。

「あー……お前、何読んでるんだ?」
「本」

 いや、そりゃ見れば分かるって。

「何ていう本? 面白い?」
「あなたには関係ない」

 驚くほど冷たい一言だ。クラスメイト同士で放っていいような言葉ではないだろう。その言葉の裏に隠された、『話し掛けるな、どっか行け』という副音声を俺は確かに聴き取った。
 が、そんなことで俺は怯んだりはしない。こういうことを言われるのは予想の内であった。西原が言っていたのだ、アイツは周りの誰とも関わろうとしない、と。俺はさらに谷口に言葉をかける。

「お前って、けっこう美人だよな。彼氏とかいないのか?」

 別に決して、俺は谷口の恋人の存在を問いたいわけではない、ただ口から出ただけだ。前に何かの本で読んだことがある。女に声を掛けるときはとにかく沈黙はNGだ。何でもいいからとにかく喋って、その内の一つでも相手の気を引ければいい、と。

「…………」

 しかし谷口は何も返さず、持っていた本に再び視線を落とした。
 もうダメだ、谷口の気を引くことができない。そうだ、そもそも俺は明るい人間ではない。ポンポンと話題がたくさん頭の中から出てくるような人種ではないのだ。残念ながらナンパな性格は持ち合わせていない。ただでさえ他人と交わろうとしない谷口と会話を成立させるなんて、最初から不可能だったのではないだろうか。
 だが何故だか俺には、身を退くという選択肢は選べなかった。緊迫感を持っていた。理由なんて分からない、何か分からないような大きな力に動かされていたのかもしれない。胸で何かが蠢いているような、頭の中が騒がしいような、そんな感じだ。俺ではこの感情をうまい言葉で表現することができない。というか自分でも理解できない。

「なぁ、一人で居るの、辛くないか?」
「…………」
「孤独主義か?」
「…………」
「周りの目は気にならないのか?」

 この言葉は、ただ口から出たというわけではなかった。俺のことも含んでいる。谷口が一人でいるのには共感できる。ただ、周囲の目を気にしていないというのは、少し気になっていた。俺とは違う価値観を持っているのだろうか。

「俺は、お前に似たようなものを感じたんだ。だからこうやって話し掛けているんだけどさ……。お前は休み時間でも一人でいることが多いだろ。というか、俺はお前が誰かと長い間一緒にいるというのを見たことがないんだが」

 昨日初めて存在を知ったのだから、当然と言えば当然なのだが。

「……俺は、一人で居るのが辛いとは思わない。人付き合いが煩わしく感じることもあるし、一人で居るのは気楽だと思う。けど、周りからそう見られるのは嫌なんだ。根暗だの孤独だの、そういう風に思われるのはたまらなく辛いんだ。……お前はそうは思わないんだろ? 自ら孤独を望んだって噂だし」

 あぁ、俺は一体何を話しているんだろうね。矛盾が犇めき合っているじゃないか。本当に人付き合いが煩わしいのなら、こうやって谷口に話し掛けている俺は一体何なのだろうか。

「私は……」

 俺の文章の何に反応したかは分からないが、谷口が口を開いた。本から目を離してこちらを向いている。やった、成功だ。

「私はあなたとは違う価値観を持っている。人付き合いが煩わしく思えるのはあなたと同じ。けれど、私はあなたのように周囲の目を気にすることはない。人間は自分以外の人間の気持ちを完璧に理解できることはない。どこまでいっても他人は他人。分かり合うなんて不可能」

 やっとまともな言葉を返してくれた。……いや、まともかどうかはかなり微妙だな。

「他人の考えていることを完璧に理解することは不可能だから、最初から理解すらしようともしない、と?」
「そう」

 なるほど、分からないでもない。その考えは俺も共感できる。

「辛くないのか?」
「辛くない」

 これで少なくとも当初の目的は達成できたわけだ。話し掛ける、会話を成立させるという目的が。だが人間というのは欲深い生き物で、何か一つ成功したらもう一つの何かを成功させたくなるものなのだ。いや、まぁ、おそらく無意識のうちに。

「お前、いつも本読んでるよな?」
「…………」

 言葉こそ返してくれなかったが、谷口はコクンと頷いた。肯定の意味にとって問題ないだろう。

「それ、何ていう本だ?」
「……言えない」

 度肝を抜かれた。言えないのなら最初のように沈黙を貫き通してくれればいいのに、わざわざ言えないと口にすることはないじゃないか。というか、言えないようなタイトルなのか? それとも俺には知られたくないのか?
 そう思っていると、谷口は本を閉じて、一ページ目を開いて俺の前に差し出した。そこには、『言えない』という文字が明朝体で躍っていた。なるほど、そういうタイトルなのか。てっきり谷口がそう主張しているのかと思って冷や冷やしたぜ。
 谷口はその本を閉じ、鞄に閉まった。そしてその鞄を持って教室から出ていってしまった。あまりに突然の出来事で、俺はどうすることもできなかった。別れの挨拶もせずに、ただその場に立ち尽くしてしまった。
 まぁ、あまり悪いイメージを持たれてはいないだろう。うん、いないはずだ。こういう時はポジティブシンキングに限る。


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