「おい谷口。マジでか? 昨日のはマジなのか?」
「うん。源内さんも覚悟して来たんじゃないの?」
時刻は午前九時。場所はさくら公園――前日にバスケを披露した公園だ。
俺がなぜこんなにもたじろいでいるかと言うと、昨日の谷口との電話の内容が原因だ。
『明日九時にこないだの公園に来て。ちょっと今書いている小説で、海が出てくるから見たいのよ。連れてってね、よろしく。じゃ』という電話が掛かってきて、俺が何かを言う間もなく切れてしまったのだ。唖然していると、再び携帯電話が鳴って、
『あ、言い忘れたけど九時ってのは午前九時ね。おーばー』またもや一方的に言われて切られた。少なくとも日付が変わった深夜にかけてくる電話ではないだろう。休日だから夜更かししようという計画が無残にも潰えた。
「あの、谷口さん? 今から本気で海に行こうと考えているのですか?」
「本気よ。昨日も言ったけど、お金もあんまないから二人乗りで。頑張れ」
そんなこと聞いた覚えはない。この女はちょっと頭がおかしいんじゃないか? いくら何でも海まで二人乗りはないだろう。海までは直線距離で三十キロ近くあるというのに。
「ほら、行くわよ。今から行けばお昼前には着けるはずよ。さぁ、出発!」
「いやいや、ちょっと待てよ。海のことを書くからって、別に海に行く必要もないんじゃないか? ほら、お前ってすごくたくさん本読んでんだろ? 中には海が出てくる話だってあったんじゃないか? そういうのを見て書くとかさ」
「実際に出向かないとわからないことだってあるのよ。昔の人は旅をするのは行き先が目的ではなく、行く道中が目的みたいなものだったのよ。途中で見たり思ったりしたこととかを松尾芭蕉だって書いてるじゃない」
「じゃあ何故お前も自転車で来ない? 何故俺の後ろに乗って行こうとする?」
「疲れるでしょ。私は仮にもか弱い女の子よ」
言うが否や谷口は既に俺の後ろに乗っている。あぁ、本気なのか。二人乗りは漕ぐ方はすごい疲労感を覚えるということをこの女は知らないのだろうか。オーバートレーニングになっちまって俺の身体が破壊されようものなら責任とってもらえるのだろうか。
「一日ぐらいでならないわよ。さ、行きましょ」
そういえば、と俺は思った。中学で部活を引退してから、ロクに運動していないよな。毎日の登下校と体育の授業ぐらいでしか身体を動かしていないよな。たまにはこうやってサイクリングで爽やかに運動をするのはいい考えじゃないか。それも、女の子と二人乗り。最高のシチュエーションじゃないか。谷口だって俺の前では明るいし、なかなかにかわいい女の子である。
そういう爽やかな考えとだらしない考えとが頭の中を飛び交い、俺は自転車を漕ぎ出した。せっかくの休日をだらだらと過ごすのも無粋だしな。
行ってやろうじゃないか、海。待っていろよ、太平洋。
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