「ただいま……」
普段の我が家は、お帰りと言葉を返してくれる人はいない。父はいなく、母は仕事でこの時間は留守にしている。それでも俺は律儀に、ただいまと挨拶をするのだ。習慣だからな、別に誰かに聞いてもらいたいわけではない。
俺は階段をゆっくり上り、自分の部屋に入る。
この部屋はあまり広くない。机、ベッド、物置、押入れ。それらが設置されているので、他に使える自由な空間は相当狭い。中学の時に行った友達の部屋をマルタ共和国の広さに例えたとしたら俺の部屋はサンマリノ共和国並みの広さしかない。くっ、世界史が地理だったら赤点を取らずに済んだのになぁ。
我が高校の授業の必修科目を恨めしく思いながら、俺は服を着替え始めた。ワイシャツを脱ぎ捨てて押入れを開けた瞬間――
ドン!
壁越しに耳障りな音が聞こえてきた。何かを壁に打ち当てたような、思い切り床を蹴ったような、そんな感じの音だ。
普通の人間なら何事かと驚くだろうが、俺は驚いたりはしない。俺に限らず、母親もそうだろう。この家で生活をしていれば、これは日常茶飯事なのだ。実際に確認したわけではないのでこれは推論に過ぎないが、今の音はおそらく兄が壁を殴った音だろう。
何故兄が家の壁を殴るのが日常茶飯事なのかといえば、簡潔に述べると、彼は少し問題のある人間なのである。人にもよると思うが、少なくとも俺はそう思っている。今現在、頭の構造が他の人とは違うというか、常軌を逸しているというか、そんな感じだ。
兄は俺より二つ年上だ。今年で十九歳になる。だが兄は二年生の時に高校を退学した。そして半ひきこもりとなり、現在に至っている。はっきり言って、同じ家族として恥ずかしい。もし親の立場なら勘当してやればいいのに。十九と言ったらもう立派な大人だ。学校に行かないのなら働くべきなのだ。少なくとも何らかの方法で収入を得なければいけない年だというのに、兄は何もしない。いや、部屋で何かよくわからないことをしている。俺や母親には理解できないことを。
まぁそんな訳のわからない人物なので、訳のわからない行動を起こすのは当然のことだと俺は考えていた。今みたいに壁を殴ることはしょっちゅうなのだ。最初に聞いたときは何事かと思ったが。ミステリー番組だってすぐに謎は解き明かされるものなのだ。
「ぐあぁ! もうダメだ! 死んでしまう!!」
いっそ死んでくれ。こんなのが家族にいるもんだから、俺は真っ当に生きていこうと思えるのだ。兄と同類にされたくないと切実に願うのだ。誰だってこんな兄弟をもったらそう思うだろ?
「お前はいつだって見られているんだ! お前が気づかなくても周りは全部お見通しなんだ! 気をつけろ! ヤツらはいつだってお前のことを冷ややかな目で見下しているぞ! アイツだって、そうだろ。最初から全部知ってただろ! 簡単に情報を与えてはいけないんだ! 自分の中から外に出しちゃいけないんだ!」
相変わらず頭のおかしい兄だ。ドラッグにでも手を出しているのだろうか。ひきこもりで薬物中毒とかは、恨めしいというよりかわいそうだ。哀れになってくる。
けれども自分から兄を更生させてやろうと思うことは皆無であり、血が繋がっているといっても他人は他人なのだ。兄弟だからってわかりあうことなど不可能なのだ。インポッシブルなのだ。まぁ誰かが兄を更生してくれるというのなら、別に止めることはなくその親切な誰かさんにやらせてやってもいい。ただ、何が合ったかは知らないが彼の心の傷と頭の傷はもう膿んでいて治療不可能のような気もするけどね。
俺は普段着にすっかり着替え、勉強机の前に座った。机から一冊のノートを取りだし、それを広げる。
そのノートには、兄の理解不能な独り言が綴られていた。
無論書きとめているのは俺だ。壁を殴りつけるのが日常茶飯事であるのと同時に、今みたいに訳のわからないことを叫ぶのも日常茶飯事なのだ。こんなスリリングな生活を送っている日本人はそう多くはないだろう。アイアム少数派ジャパニーズだ。
そしてその理解不能な独り言に、俺はとても興味を持っている。だって面白いじゃないか。訳のわからない叫びをノートに書きとめ、その一つ一つに様々な妄想を広げるのはもはや俺の日課となっている。あぁ、なんと不健康な趣味なのだろう。
ただ、今日の俺は違った。板橋に目撃されたのを知ったというのもあってからだろう。
「お前はいつだって見られているんだ」と兄は言った。誰に向かって言ったのかなどはわからない。兄自身なのか、電話の相手なのか、幻想が見えているのか。ただ問題なのは、偶然か必然かはわからないが俺がその言葉を聞いたということだ。よって俺は、兄の言う『お前』に俺を当てはめてみた。
いつだって見られている。確かにそうかもな。現に板橋に見られたんだ。他のヤツは言わないだけで、俺と谷口が放課後に話していたりいろんな場所に二人で出かけているのをみたヤツは大勢いるかもしれない。兄の言葉を借りれば、俺が気づかなくても周りは全部お見通しだそうだ。そうだよな、俺と面と向かって罵るようなヤツはそうそういないもんな。もしかしたら西原だって、俺の前では本音を隠しているだけで、陰ではボロクソに罵っているかもしれない。そうじゃないとしても、俺に対していい印象を抱いていない可能性だってある。差し障りのない生活を送るために、人間は適度に嘘をついて誤魔化して欺く生き物なのだ。なんせ俺が既にそうなのだから、俺と同じように考える人間が他に大量にいたとしてもおかしくない。というか、そう考えるのが自然だとすら思える。
あぁそうだ、俺だってクラスメイトたちを心の中では見下している。だが決して口に出したり態度でばれたりするような真似はしない。十六年間生きているだけあって、本音と建前を使い分けることぐらいはできるのだ。俺は子供ではない。もしかしたら谷口だって俺と同じように考えているのかもしれない。俺以外の他のヤツには本音を口に出すが、俺に向かっては何故か本音を言えずに自分の意見を押し殺して嫌々話しているのかもしれない。他のヤツと話すのとは違う態度を俺に見せてくれたから、俺が勝手に勘違いしていたのかもしれない。
いつだって俺は冷ややかな目で見下されているぞ。そうかもな。俺が見下しているかわりに、連中も俺を見下しているんだ。そういえば忘れていたが、西原は俺が谷口に興味を持ったということを知っているではないか。それを聞いて西原は谷口に聞いてみたではないか。西原に言ったりなんかしたもんだから、谷口に源内さんなどと呼ばれる羽目になっているのだ。俺と谷口が仲良さ気にしているということを、西原が他の連中に言っている可能性だって否定できない。谷口の言葉を借りて言えば、他人の考えていることなんて理解できない。化学と同じで、目に見えない確証のないものはどこまでいっても推測の域を超えることはないのだ。
あぁ怖い。
板橋が怖い。
谷口が怖い。
西原が怖い。
人間が怖い。
――俺が怖い。俺自身、俺が怖い。
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