翌日には借りていたノートを全て返した。全てを写したわけではないが。別に俺は普段から学業に熱心な高校生ではなく、西原のノートに書かれていた内容の半分も理解できなかったし理解する気も起きなかったからだ。それまでだって普段から熱心に板書をノートに写す人間ではなかったからな。高校でやる授業のなんてその内容が役に立つのではなく、それを覚えたり考えたりするために必要な論理的思考やら暗記力やらを養うためのものなのだ。少なくとも俺はそう思う。これに反対意見を持つ人は、化学式やら三角関数やらが日常の中でどう役立つというのかを是非俺に教えて欲しい。ただし難しい説明はパスだ。俺には理解できそうにないからな。
そしてそれ以降、俺は西原と会話をすることはなかった。
これはあくまで俺にとっての話だ。俺の中の無意識なもう一つの人格が、西原となにやら言葉を交わしていたらしいことを俺は理解している。だが、俺の口が動くのを俺は気づいたが、何を言っているのか、そして俺の耳が西原の言葉の何を拾ったのかを俺は理解しなかった。理解する気がないからだろう。もう他人なんて信じないことを決めたからな。
西原――こうしていつもと変わらず俺と一緒にいてどこにでもあるようなことを話している。周りから見れば俺と西原は仲の良い友人同士と思っているだろう。だがコイツは内心では俺のことを悪く思っているのかもしれない。いや、きっと悪く思っているのだ。何せ俺がコイツのことを悪く思っているからだ。俺がコイツのことを悪く思っているのは、コイツが俺のことを悪く思っているからだろうという推測からきている感情なのでこの考えは矛盾極まりないと言えるのだが、そんなことはどうでもいい。自分心の中の奥の奥にある感情は、そんな矛盾など関係なしなのだ。そんな矛盾は些細な問題なのだ。
板橋――俺の脳内では、コイツとは友情の縁は切れた。もともと旧友というだけで高校に入ってからはあまり付き合いも良くなかったし、友情の線が見えるものなのだとしたらそれはもう磨り減って今にも切れそうに伸びきった輪ゴムのようなものだったろう。そしてその輪ゴムはぷつんと小さな音を立てて切れてしまった。何せコイツは俺が谷口と仲良くしている現場を目撃しやがったのだ。確かにあの時の――正確には、バスケをするためにさくら公園に出向いた時からの――俺は、少し注意が散漫になっていたかもしれない。教室で話すときは放課後という誰も居ないであろう時間を選択し、他の時間は決して話すことはなかった。だが学校外で、俺たちが遠出した先で誰かがそれを目撃するという可能性を俺は微塵も考慮しなかった。完全に俺の落ち度だ。もし今の俺に時間を跳躍する能力が備わっているとしたら、その時の俺に教えてやりたい。いや、その時でなくもっと過去に遡って谷口に話しかけようとしている俺を止めるべきなのだろうな。そういや俺が話しかけてから谷口はだいぶ明るくなった(気がする)のだが、話し掛けていなかったらアイツは今頃どんな風になっているのだろうな。あのままネガティブオーラを周囲に振り撒きつつ誰とも取っ付かずに残りの高校生活を過ごしていくだろう。いや、高校生活を過ごし切る前に登校拒否になったり自殺を企んだりするかもしれないな。まぁ過去に遡ることは不可能なので俺にそれを知る術はない。もしそんな能力が俺にあるなら小学校の頃まで遡ってエジソンの偉業を教えてやるべきだしな。
谷口――俺にとっての全ての元凶はコイツと言っても過言ではないだろう。俺はコイツの前では嘘をつけなくなった。そしてそれは喜ばしき事態なのだと思っている俺がどこかにいた。しかし、そんなことはないのだ。人間はどうしても嘘をつく生物なのだ。この世に嘘をついたことのない人間なんてまずいない。そんなのはまだ喋ることのできない赤ちゃんぐらいだろう。コイツの前では嘘をつけないとか、そういう風なヤツのことを、世間は愛だとか恋だとか好きだとか、そういう前向きで肯定的で偽善的な言葉で一括りにするかもしれない。だが、俺からしてみればそんな陳腐な言葉で表現されるのは腹が立つ。かといって俺が他に表現すべき言葉を持っているわけでもないが。あまり語彙力に自信があるわけではない。結局俺も、これだ、と絶対の自信を持って言える表現方法を持たないのだが、強いて言うとすれば、災厄だとか悪い方向への道標だとかそんな言葉しか思い浮かばない。小説家を目指している谷口ならもっと良い表現技巧なんかを使いこなせるのだろうね。聞いてみようとは思わないが。まぁとにかく、俺が谷口に何気なく話しかけたあの日から、きっと俺の人生は悪い方向へと進んでいってしまったに違いない。
そうして俺は煩わしい日常会話などを無意識の俺に分担させ、谷口を避けるように行動して一切話さないように過ごした。俺じゃない俺は谷口と話せないらしいし、だからと言って俺は谷口とは話したくないのだ。今の俺は慎重だ。誰にも谷口と話している現場を目撃されたくないのだ。今だって陰で散々悪く言われているが、これ以上悪く言われるのは真っ平だからな。
俺は別に谷口と話すのを嫌っているのではなく、谷口と話しているのを目撃されるのを嫌っているだけなのだが、それはいつしか前後し矛盾の中に身を包み、谷口と話すことそのものを嫌うようになった。それも当然だろう、谷口と話している結果周囲から蔑まれ、それを嫌うのだから根本的な部分を嫌うのも何ら変わりはないだろう。そういう風な理由から俺は谷口をひたすらに避けて高校生活を送ることを決意したのだ。
そう、谷口に話し掛ける前の日常に、表面だけは戻ったのだ。
←前のページへ 次のページへ→
戻る