不健康な人達 34


「おい」

 家に帰り、俺はいつものように自分の部屋へ向かおうとしたのだが、リビングで何者かに呼び止められた。
 おや珍しい、兄がいるではないか。
 兄は確かに引きこもりではあるが、自分の部屋から一歩も出てこないというわけではない。トイレが自分の部屋にあるわけではないし、食べ物が豊富に部屋にあるわけでもない。親は食事を兄の部屋に持っていってやるということをしないので、兄は腹が減り次第、リビングに降りてきて貪るように食べる、と我が家ではもっぱらの噂だ。家族三人で食事をすることは、もう何年間も前からない。

「……あんだよ?」

 はっきり言って、兄はガリガリだ。テニス部だってすぐに辞めてしまったし、それから運動をしていないはずだ。しかも今は学校にも通っておらず、ものすごく不健康な身体だ。
 俺はあまり兄と話をしたくないので、思い切りガンを飛ばし、ドスを利かせた声で不機嫌そうに答えてやった。俺は確かに高校では帰宅部だが、中学の頃は第三中のバスケ部でレギュラーを獲得した男だ。兄とは鍛え方が違う。もし殴り合いになるようなことになれば、俺が負けるはずがない。
 しかしまぁ兄もそれをわかっているはずなので、殴り合いに発展するようなことにはならないだろう。

「……まぁ、座れや」

 兄がテーブルのほうを指差した。俺は素直にそこへと腰掛けた。兄も正面に座る。

「何? 現役の高校生は忙しいんだけど」

 精一杯の皮肉を込めてそう言ってやった。そういえば兄が高校を退学したのは二年の秋だ。ちょうど俺がその時期の真只中にいる。おそらくそろそろ学力でも兄を上回ることができるだろう。
 兄は麦茶の入ったグラスを二つ持っていた。一つを自分の前に置き、もう一つを俺の方へよこした。

「飲むか?」

「アンタの用意してくれたもんなんて怖くて飲めないね」

 何度も言うが、俺はこの兄が嫌いだ。大嫌いだ。同じ家族として恥だ。こんな嫌みの一つも言ってしまうってもんだ。

「……何だよ、何か用か?」

「お前……変わったな」

 そりゃぁ人間だもの。変わっていく生き物だろ? まだ俺は十六なんだ、アイデンティティの確立を既に終えたとは言いがたいね。

「いや、そうじゃなくてな……。夏休みに入る前ぐらいからだ。お前の雰囲気が途端に変わったよな」

 夏休みに入る前に何があったかな? 板橋に目撃されたことぐらいだろうか。アンタもずいぶんと暇だね、他にやることもないから俺の雰囲気などを日に日に観察していたのだろう。監視されていたみたいで腹立たしいね。

「……何かあったのか?」

「何でテメェにそんなこと話さなきゃいけねーんだよ」

 しかし兄は、俺のドスを利かせた態度に臆することなく言葉を続けた。

「心配なんだよ。お前の年頃は何かと過敏なんだ。学校で何かあったのなら、俺に話してみろ」

 ほう、俺に心配してくれるのか。お前はそんなことを心配して俺に構う前に、親に構ってその引きこもりライフから早く脱した方がいいと思うぜ。学校にも行かない働きもしない、そんなお前が今こうして生きていられるのは親が働いて貴様を養ってくれているからということを理解していないとは言わせないぞ?

「……ちょっとついてこい」

 兄は席を立った。そして二階へ向かう。俺は大人しくその後についていった。
 兄は、自分の部屋に入った。俺もそれに倣う。

「……見ろ」

 何を? まぁ俺の部屋より少しは広いかな。やっぱ弟は兄の二番煎じなんだ。弟はどう頑張っても兄の年齢を追い越すことはできないからな。

「そうじゃない、コレだ」

 兄は机の上を指差した。そこには、辞書やら参考書やらが乗っている。……もしかして、兄は高校を退学した今でも勉強を続けているというのか? 学校に行ってもいないのに数学やら物理やらが大好きだなんて、アンタも物好きだなぁ。現役高校生の俺だって数学理科は見ただけで鳥肌が立ってしまうのに。
 兄は机の中を開き、一つのファイルを取り出した。それを開け、中から一枚の紙を取り出す。そしてそれを俺に差し出した。

「……見ろ」

 俺はそれを受け取った。そして仰天した。今まで俺はこの目の前にいる兄のことを、ただの引きこもり兼ニート兼ろくでなしと思っていたからな。少しはその悪いイメージが払拭された。少しだけな、ほんのちょっと。

「…………」

 その紙は、大検の合格証明書だった。

「……へぇ?」

 兄の話によれば、既に春には大検に合格していたらしい。大検というのは、高校を卒業しなかった者が大学へ入るための試験だ。この試験に合格すると、高校卒業生と同じ立場に立つことができ、専門学校や大学を受験することができる。

「大学は落ちちまったから、年齢的には今は一浪ってとこだ」

 兄が口にした大学名は、俺も聞いたことのある、なかなか有名な国立大学だった。俺がとりあえず第一志望にしている学校よりも、十ぐらいは偏差値が高い。そういえば兄が通っていた高校だって、県立学校の中では一番頭のいい学校だった。昔からコイツは頭が良かったからなぁ。俺も頑張ったけど勉強(特に数学理科)だけは勝てなかったんだよな。

「俺が何で高校を退学したかわかるか?」

「わからん。お前は頭良かったんだろ? なら、なおさらわからんね」

「……教えてやろうか?」

 別に知りたいわけではないがな。なんだか今日の兄は普段と違うようだ。

「言いたいのなら聞いてやってもいいぜ」


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