突然兄が大声を出した。もし今家に親が居たとしたら、何事かとこちらに慌てて向かってきただろう。そして俺と兄が会話している(しかも兄の部屋で)のを見て、どう反応するだろうか。兄が引きこもりを脱し始めていると思うか、俺が兄に向かって牙を向いていると思うかのどちらかだろう。まぁとにかく不意に大声を出されたので、俺は気が動転してどうでもいいようなことを考えてしまったのだ。今の時間は親は仕事中、帰ってくることなどまず有り得ない。いや、でもゼロではないな。低確率でもゼロではない限り、どんな事象も起こりうると俺はこの間悟ったばかりだ。まぁ親がどのような行動を起こしたとしても、別にどうだっていいことだ。それに結果として、親が今家にはいないのだ。もちろん兄の部屋へドタドタと向かってくることもなかった。つーか、お前こんな大きな声出せたんだな、仰天だぜ。こんなに至近距離で大声を出されたのは小学校以来だからな。六歳のときに板橋が俺の鼓膜を劈く勢いでシャウトしてきた以来だ。あのときの恨みは未だに忘れないぜ。何せそのおかげで俺は失神と失禁を同時に起こしたんだからな。
「……俺だけ?」
しばらくして俺は平静を取り戻し、兄に尋ねた。
「……いや、もしかしたら世界中にはお前のような器用なヤツが他にいるのかもしれないな。ただ、大抵の人間はそんな器用なマネできるわけがない。お前のそれは多重人格だろう」
ああ、そうかもしれん。ビバ多重人格。
「おそらく大抵の人間には無理な芸当だ。まぁ望んで無理矢理に自分の中に他の人格を作り出そうと思えば、もしかすっとそれは不可能じゃないかもしれないな。まぁとにかく、通常ならばそんなことを気にせずに冷たい風に吹かれつつ我慢して生活するか、何故そうなのかと問い詰めて納得するかのどちらかだろう」
そうかもな。で、お前は俺のように多重人格にはなれなかったんだろ?
「そうだ。俺は陰口を叩かれ、いい気がしないまま特に何もしなかった。自分から波風を立てるようなマネはしなかった。問い詰めたってどうしたって事態は悪くなるとわかりきっていたからな」
そりゃぁそうだ。けど、それだったら何でお前は高校を辞めたんだ? そりゃぁストレスも溜まって心の中が不健康この上ないような状況に陥ったかもしれないけど、それでも何とか残りの二年ぐらいは耐えられたんじゃないか? 幸いお前は頭が良かったんだから、それだけで優越感に浸れただろうよ。
「……陰口が陰口でなくなったからだ」
陰でコソコソというわけではなく、面と向かって悪口を言われたり態度に示されたりされたのか?
「そうだ」
あぁ、それはきついね。陰口を叩かれるより面と向かって言われたほうがまだいい、と弁解するいじめられっ子とか、陰でコソコソ言うより言いたいことがあるならちゃんと本人の前で言いなさい、と諭す学校の先生とかいるけど、そういうのは全部間違っていると思う。そのいじめられっ子はただの強がりであり、学校の先生は偽善者以外の何者でもない。
いや、別に俺は陰口という行為そのものに肯定的なわけではない。無論、悪いことだろう。負の属性を持っていると思う。陰で悪口を言うということなのだから、それが悪いことではないわけがない。ただ、陰で言っている分はまだマシなんじゃないだろうか。兄だって俺と同じ考えを持っているだろうから、耐えられなくなったのだろう。そうだろ?
「ああ。面と向かって言われたら、そりゃぁもう精神的ダメージは大きい」
こんな話を聞いたことがある。ある女が男と付き合うときに、『もし浮気とかするんだったら、絶対あたしにバレないようにしてね』と言うのだ。無論浮気は赦されることではないだろう。しかし、するのだったらバレないように、と約束させるのだ。俺は若い頃はこの言葉の意味がよくわからなかった。いや、今でも世間一般からすれば若い方だけどさ、その頃に比べたら少しはいろいろと考えられる頭を持ったんだ。
もしここで、女が『浮気は絶対に赦さないからね』と言ったらどうなるだろうか。まぁ大抵の男は浮気をしないと思う。だが、もし仮に何らかの手違いで浮気をしてしまったとする。すると男はどうするだろうか。バレないようにどうにかするか、自分から女に素直に謝るかのどちらかだろう。中には、その女を捨てるという男もいるかもしれない。が、そんなのはごく少数だと俺は思うのでここでは省略させてもらおう。
さて、俺がもしその男の立場だったら、素直に謝ってしまうかもしれない。本当に悪かった、ごめんなさい、と。自分の中で、彼女に悪いことをしたという罪悪感がうずまいて自己嫌悪に陥ってしまうかもしれないからな。しかし、言われた女はどうだろうか。人によっては、素直に謝ってくれたからいいよ、と言う人もいるかもしれない。浮気現場を発見してしまうよりかは絶対にいいだろうしな。けど、知らないままで過ごしていた方がよかったという人も少なくはないだろう。世の中には知らない方が幸せということもあるのだ。男に告白されたことによってその事実に気づいてしまい、傷ついてしまう女だって大勢いるだろう。
話がだいぶ脱線してしまったので元に戻すが、陰口だってこれと似たようなものだ。例えば俺も兄も陰口を叩かれているという事実に気づいてしまっているが、中には気づかないで日々を過ごしておられる鈍感な方もいらっしゃるのかもしれない。そんな方が面と向かって悪口を言われることによって、俺が周囲からこんな扱いを受けていたなんて……、と驚愕するかもしれない。そうじゃないと気づいている人も、陰で言われている分の方がまだマシだろう。これは浮気の話の理論とは違うが。これは正直に言ってくれたから許せるなんてことはない。絶対ないね。正面から言われたほうがいいと抜かすやつは、よほどのお人よしか強がりかのいずれかだ。自分の悪いところを素直に聞き入れて、そいつらと同調して共存していくという、かなりの慈悲深いお方だ。神だ。仏だ。俺からすれば、そんなヤツは人間じゃない。俺たち凡人とは脳の設計図がどこか違っているのだ。俺たち一般人とはかけ離れた存在だ。俺たち一般人は、面と向かって悪口を言われたら、普通に傷つく。気にする。精神的損害を受ける。まぁとにかくそうなのだ。
「……いいか? 俺だって言われるままにずっと溜め込んだわけじゃない」
そうだよな。面と向かって言われてしまったら、堪忍袋も爆発しちまうよな。
「何で俺のことをそんなに悪く言うんだ。罵って気が済むのなら今までどおり陰で言ってろよ。不愉快だ、消えろ。――まぁこんな風に言ってやった」
……そいつらがそんな言葉を聞いたら、ますますヒートアップすると思うぜ?
「下手に出るという行動そのものが俺の中で許せなかったんだ。そうだろ? 別に俺が何かしたわけじゃないんだし。クラスの全員と仲良くするだなんてことは最初っから無理なんだ。俺はそいつらと仲良くなろうなんてサラサラ思わなかったし、それも手伝ってそういう口調で言っちまったんだ。でまあ、案の定お前の言うとおりヒートアップしたよ」
具体的にはどのように?
「……忘れた。無意識のうちに思い出したくないから、記憶が削除されているみたいだ。あまりの恐怖により、脳がその記憶を自動的に消去するという現象があるらしい。まさしくそれだろうな」
その現象は知っている。国語総合の授業の何らかの小説のときに習った。戦争の兵士の私小説だったな、確か。
「それでその恐怖に耐えられなくなって、俺は不登校になってそのままずるずると退学したんだ」
それはかわいそうに。ただ、冷酷でないという部分が説明できていないように思えるのは俺だけか? そいつらと仲良くする気がない、という部分を見れば、取り方によっては十分冷酷だと思うぞ。
「誰とでも本心から仲良くするなんて人間業じゃない。それは人間として当然なんだ。冷酷なんて言葉の範疇外だ。正当な行動だ」
おーい、また話が見えなくなってきたぞ。
「俺はあんな態度をとりはしたが、本心からそう思っているわけではなかった。いや、仲良くしようなんてことを思っているわけではなかったが、何故俺がここまで悪く言われているのかを冷静に考えたんだ。悪く言われているままでいい気がしないからな」
そんなの放っておけばいいだろ。
「そう、そこ!」
兄がいきなり大声を上げた。俺再び仰天。まぁ先程のシャウトよりかは威力低めだ。ただ、言うと同時に人差し指をピシッと俺に突きつけてきたので、驚きは先程より強い。……えーと、あなたはこの場面で格好つけているのですか?
「はぐらかすな。……お前だったらこう思うんだろう。言いたいヤツには勝手に言わせておけばいい、そんなレベルの低いヤツに構うことはない、と」
その通り、よくわかったな。さすが腐っても兄弟。
「だが、俺はそう思うことができなかった。そこが俺とお前の違いだ。お前が冷酷で、俺が優しすぎたということだ。わかるか?」
なんとなくは理解させてもらった。
「お前が、今俺の言ったように冷酷をフル活用して高校生活を何とか過ごしているのなら問題はないのだが、なにぶん俺は腐ってもお前の兄だ。心配なんだ」
まぁ、影ながら勉強して大検に合格、自分の過去の心情を苦しいながらも語ってくれた兄になら話してもいいかな、と俺は思った。まぁコイツが何か言ってきてもそれを参考にするかどうかは別問題だ。兄に言わせれば、俺は冷酷な人間だからな。
「俺のクラスに谷口ってヤツがいてな……」
←前のページへ 次のページへ→
戻る