「……と、そうして現在に至るわけだ」
話してしまった。とうとうこのことを誰かに話してしまった。まぁ誰かに口止めされていたわけではないし、どうせ兄になら知られても困るものでもないし、クラスの誰かに知られるわけではない。
ただ、今俺は不覚にも、兄のことをある程度見直したのだ。ただの引きこもり兼ニート兼薬物中毒の人間だと思っていた俺をどうか許してくれ。
「……薬物に手を出した覚えはない」
しかし言った直後、俺は気になった。兄に話しても構わないと思ったから話したのだが、話したところでどうにかなるのだろうか。兄が俺に何かいいアドバイスでもくれるというのだろうか。
俺は別に現状を打破しようとは思っていない。谷口と話せないままではあるが、話そうと願っているわけではない。別に今の状況が続いたとしても困るわけではない。兄はもしかして、俺の話を聞いて、笑いの種にしたかっただけではないか。うん、だとしたら俺の兄への評判は一気に急降下だ。さっき少し見直した分、なおさら落ちた。優しいとか言っていたのも全部嘘だったのか。くそ、誰よりも冷酷じゃないか。
「……んな勝手な思い込みはやめてくれ。俺はただ単純にお前が心配なだけだ。お前からしたら俺はダメな兄だったからな、お前には俺のようになってもらいたくないんだよ」
頭がいいという部分だけは憧れたが、それ以外はなりたくないと思うぜ。
「だったら失敗者の意見だって聞いてくれよ」
聞いてやろう、ぜひ言ってくれ。ところで、お前は何がしたいんだ? 俺の誤解を解きたいだけではないんだろ。
「お前の態度が夏休みの前あたりからおかしいというのは話したよな? お前は、今の自分が不健康な考えを持っていると思わないか?」
思うよ。でも、少なからず人間ってそんなもんだろ? 嫌なことがまったく無い、なんてヤツはただのバカなヤツに違いないね。
「まぁ誰だってそうだろうが、それを解決していくのが人間だろ。お前はその嫌な部分と共存してこれからずっと生きていくつもりか?」
そのつもりだ。別にこの不健康な生活が続いても苦ではない。そのしがらみを抱えたまま墓場に持っていっても構わないね。
ただ、俺はそれを思っただけで口にはしなかった。せっかく兄が俺に対して助言か何かを言いたがっているようだから、別に他に用事があるわけでもないし、聞いてやってもいいかな。参考にするかどうかはわからんが、そういう風な考え方もあるぐらいには心に留めておいてやろう。うん、決定だ。
「その谷口という女の子は、お前にとって何なんだ?」
何かと問われても、返答に困る。別に付き合っているというわけでもなければ、ものすごく仲が良いわけでもない。ただ、まぁ普通に世間一般にある友情関係とは少し違うような気がするが、あくまで気がするだけだ。これという決定的な回答を俺は持ち合わせていない。
「その子はその子であって、その子以外の何者でもない、なんて誤魔化しは答えとしては不適格だからな。お前がその子に対してどのような感情を抱いているか、だ」
うーん、それも返答に困るね。そんな愛とか恋とかそういう感情は持っていない、と思う。普通とは少し違うクラスメイト。
「……そうだな、質問を変えよう。お前がその子と話しているとき、お前はどう思う? 何を感じる?」
……何だろうな。谷口はそれで楽しそうだったし、俺も楽しかった。俺は谷口とどこかへ行くということを楽しんでいた。クラスの女の子と二人きりでどっかに出かける、そのことだけでいい気分がする。谷口だって俺の前では明るいし、なかなかにかわいい女の子である。
――俺が谷口と話している言葉に、嘘はない。
「お前にとって、その子は特別な存在なんだろ? 他のクラスメイトとは違うんだろ?」
そうだ、違う。アイツの前では俺は嘘をつかなかった。最初は意識的に嘘をつくまいとしていたのだが、結果的にそれは違った。無意識の俺が谷口と話せないことがわかり、俺は谷口の前では嘘をつけなくなっていたんだ。素直なままの自分を露呈していたのだ。
「……それが怖いものだと思ったか?」
まさか、思うわけないだろ。人間素直になれることは誇るべきことだ。
――と、そこまで思って、俺ははっとした。今俺の考えたことは、今まで持っていた考えと激しく食い違っているということに。
俺は今まで、人間は嘘をつく生き物だと思っていた。そこは間違っていない。今だってその通りだと思う。だが、嘘をつくことが人間の誇るべき特徴だと、徳だと、アレテーなのだと思っていた。その考えを、たった今俺は自分で覆してしまった。さすがはまだアイデンティティが確立されていないだけあるね。
「じゃぁ、谷口はお前のことをどう思っている?」
どう思っているんだろうね。俺は谷口ではないからはっきりとはわからない。どこまで言っても自分以外の人間は誰だって他人なので、完全に分かり合うなんて不可能なんだ。これは谷口の受け売りだけどさ。
「そりゃぁそうだ、完全に分かり合えるなんてことはない。まぁ、完全じゃなくていい。お前の思っていることでいい。谷口がどう思っているか、推測するぐらいできるだろ?」
まぁ、推測ぐらいはな。
谷口からして、俺は何なのだろう。俺が最初に谷口に話しかけたとき、アイツは拒んだ。俺だけじゃなく周りの誰からとも孤立して、自分ひとりの確固たる世界を持っていた。ある意味、アイデンティティをすでに確立していたと言ってもいいだろう。
けど、そのアイデンティティは俺によって崩壊された。俺が話しかけ、最初は拒まれたものの、徐々に普通に話せるようになった。アイツが孤独を望んでいたのは、心を開く方法を知らなかったからではないだろうか。とすると、アイツは心の底から孤独を望んでいたのではなく、心を許せる相手が今まで見つからなかったからなのだろう。俺だって、谷口ぐらいしか友達と呼べる間柄の人間がいない。
そうだ、思い出した。谷口は言った、自分以外の人間は他人なので分かり合うなんて不可能だと。こうも言った、俺のことを理解したいと。谷口は好きで孤独でいたわけじゃないのだ。
「……さんきゅ」
不本意だが、このことに気づけたのは兄のおかげだ。小さくだが一応礼を言っておき、俺は兄の部屋を出た。
兄もなかなかやるもんだな。影で勉強していたとは思わなかったし、最低最悪のやろうだと勝手に誤解していた今までの俺がちょっと憎らしいね。お前の兄はお前が思っているほど悪いヤツではなかったぞ。
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