不健康な人達 50


 俺は無意識に切られた右腕に目をやってしまった。それを見て、見なければよかったとすぐに後悔した。ざっくりと切られ、生々しい肉が見えてしまっている。まるで出刃包丁で切られたみたいだ。本当にソレは文房具なのかどうか疑わしいね。

「あっ……」

 谷口も驚いている様子だった。まったく、ブンブン振り回していた本人だというのに。しかしまぁ無理もないだろう。本気で俺を切りつけようなんて思っていなかったはずだし、当たる軌道だったとしても俺がうまいこと避けると思っていたのだろう。
 俺は鋭い痛みを感じているせいか、谷口を怒る気にはならなかった。しょうがない、コレは当然の報いなのだ。俺は谷口のことを今まで十分に傷つけた。この程度の怪我で償えるとは思い切れないほどに。

「源内さん……その……」

 谷口は何と言った? 俺が手を掴もうとした瞬間、違うと叫んだ。一体何が違っていたのか。俺が言った言葉がおかしかったのか?

「…………」

 今はナイフを振り回してはいない。だがこのまま先程と同じように取り押さえようとしたら、どうせまた同じようにどこかしら切られてしまうだろう。何がおかしかったか、考えろ。さもなくば谷口は救えないぞ。

『本当に俺が悪かったよ。許してくれなんて言える義理じゃないのはわかってる……』

 この台詞の、どこにおかしい部分があった? 悪かったと心底思っているし、謝罪を請える立場ではないことも重々理解している。
 けれど、それに谷口はどこかおかしいと思ったんだ。谷口の考えでは、この台詞がおかしいものだとか腹立たしいだとかそういう風に思ったんだ。くそう、一体何だってんだ。人間は自分以外の人間の気持を完璧に理解することは不可能だって、お前が言っていたんじゃないか。なのにそれを俺に強要するなんて。

「……痛かったでしょ、ゴメン……」

 違う、謝るのは俺のほうだ。谷口は何も悪くない。俺は別に怒っているわけではない。

「…………」

 俺はその瞬間に閃いた。今の谷口の言葉が、ヒントとなった。
 何故谷口が謝ったのか。無論、自分が悪いことをしたという反省も含まれてはいるだろう。しかしそれだけではないはずだ。別に谷口に限らず、何故人は謝るのか。
 それはきっと、許してほしいからなのだ。体面的なものも中にはあるかもしれないが、そんなのは一握りで、きっとほとんどは許しを請うべく謝っているに違いないのだ。
 許してもらわなくてもいい、なんてことはもうそれに明らかに矛盾しているのだ。何故謝るのかは、それはもう許してほしいから以外には何もないのだ。谷口だって俺に許してほしいから謝ったのだろうし、俺が謝る理由だって谷口に許してほしいからだ。言える義理ではないだろうが、それでも言っているのだから許してほしいのだ。まったく、自分の感情でさえ冷静になって考えなければいけないだなんて、俺もどうかしているよな。前は何も考えずに思ったことを口にしていた事もあったのに。肝心なときに自分の気持が言えないんじゃあ、格好の一つもつかないね。

「谷口!」

 俺は谷口の両肩を掴んだ。その時にまたしてもナイフの刃が当たって、今度は左腕を少し切られたようだ。が、俺はそんなこと気にしない。格好よく取り押さえるなんてもう目指さない。格好よかろうが悪かろうが、結果谷口を救ってやれればそれでいいのだ。気の利いた台詞だって言えない。けれども別に歯の浮くようなキザな言葉なんて必要ない、これはドラマや映画ではないのだから。谷口を救ってやれればそれだけでいい。それ以外に何も望まない。どんな犠牲だって厭わない。

「……本当に俺が悪かった」

 俺はボキャブラリーが多いわけではないからな。ありきたりな言葉しか並べられないこの頭が心底嫌になるね。

「ごめん。今まで苦しめてゴメンな。ここまでお前のことを追い詰めてしまって、本当にすまなかった」

 この後だ。俺が本当に考えていること。俺が本当に思っていること。


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