もちろん時間が止まっているなんてのはただの比喩表現で、実際にそんなことはあり得ない。あたしが前に進めてないだけで、その間も時計は、ぐるぐる回り続けてるんだ。そんなことは分かってる。
いくら考え事をしていたって、こうやって足を前に動かし続けていれば、家にたどり着いてしまう。結局すすんでないのは、あたしだけなんだ。
「……ただいま」
玄関のドアを開けていつもどおり小さく呟いて、誰の返事も待たずに、二階にある自分の部屋に向かってさっさと階段を上がろうとする。が、
「ちょっと、由愛。こっちに来て」
居間の方からお母さんの声が聞こえた。あまり良くない予感がしつつも、無視するわけにもいかない。おとなしく居間へと入る。
広いダイニングにある大きなテーブルに、行儀悪く肘を立てて、お母さんはおせんべいをばりばりと食べていた。機械的に顎を動かして咀嚼し、視線は夕方のワイドショーへと向けられている。見ているというよりは、眺めているといった方がいいかもしれない。
「今日ね、未亜ちゃんのお母さんとお話してたのよ」
親同士もお互いに仲が良い。未亜のお母さんはうちと違って専業主婦じゃないから、平日は基本的に仕事をしていることが多いけど、休みが取れたりで時間があれば、何時間でもうちのお母さんと話してることもあるらしい。きっと今日もそんな感じだったんだろう。
「未亜ちゃん、小説の賞もらったんだって? スゴいわね」
「うん、知ってるよ。あたしも読んだ」
確かにスゴいと思うけど、実の親にこう言われると、なんでか「あんたはダメね」と間接的に言われている気分で、どうしてもいたたまれなくなってしまう。
「そういえば聞いたんだけど、未亜ちゃん、それでも大学行くみたいね」
やっぱりあまりいい会話の流れになりそうにない。長話になるのがイヤで、あたしは椅子を引かずに、立ったまま話を聞くことにした。
未亜は以前から、大学に行きたいと言っていた。勉強したいことがあるって言ってたし、そのための学費を稼ぐためにアルバイトだってしてる。もう小説家として、それなりに印税だって貰ってるだろうに。
「……あんたは、高校出たらどうすんの?」
そう切り出された。このタイミングではあんまり、進路の話なんてしたくない。
お母さんは、あたしが小説を書いていることを、あまり快く思ってくれてない。「やめろ」と面と向かって言われたことはないけど、「そんな暇あったら勉強しなさい」という小言をよく浴びせられる。あたしは未亜みたいに成績がいいわけじゃないし、当然かもしれないけどさ。
「あたしは……小説家になりたいなー、って」
頬を軽く掻きながら、曖昧に笑って答える。別に今まで、こういう会話がなかったわけじゃない。それでもこういう話は、後回しにしたい。……きっとこういう風に考えてしまうのも、現実逃避という、あたしの悪い癖が出てしまってるんだろう。
「はいはい。で、あんたは高校出たらどうすんの?」
薄いテレビから視線を外してあたしの方を向き直り、再び同じことを訊かれた。それもそうか。あたしの答えが通用するのは、未亜みたいに今のうちに小説で賞とか取ってないとダメなんだろうなあ。
「そういう、小説の書き方を教えてくれるような、専門学校とかに行きたいなー、って……」
「駄目」
即答だった。
一瞬であたしの進路は否定された。
「なんでよ!」
そう言われたからといって、そんな簡単に頷けるものじゃない。あたしだって、それなりに本気なんだ。かっとなって食い下がる。
「だって、それで食べていけるのなんて、ほんの一握りの人間だけよ? そんな不確定な夢を追うなんてバカげたことはやめて、あんたはもっと勉強して、良いところに、なんて高望みなことは言わないから、とりあえず大学に行っときなさい」
「でも、あたしは小説を書いて――」
「小説なんて、大学行きながらだって、働きながらだって書けるでしょう? もっと堅実に生きなさい。現実を見なさい」
「なんでよ。あたしの人生じゃん、あたしの好きにさせてよ!」
反論してみせる。だって、あたしは確かにお母さんの娘だけど、持ち物じゃないもん。自分のやりたいことを、やりたいようにやらせてほしい。
「別に小説を書くのを止めろ、なんて言わないわよ。ただ、やりたいことがまだないのなら、大学に行っておきなさい、ってだけ」
「やりたいことならあるって! あたしは小説を書き続けて、デビューして小説家になって――」
「じゃああんた、自分でそのお金が出せるの?」
あたしの言葉は、現実的な話題によって途中で遮られた。
「知ってる? ホントはこんな話をしたらお父さんに怒られるだろうけど、子ども一人育てるのにどれだけお金がかかってるか。私はこれでも、あんたの将来のことはあんた以上にまじめに考えてるつもりなの。確かにあんたのことを、私の持ち物だなんて、そんな風には思ってないけど。でも自分のやりたいことをやりたいようにやるって言うなら、それにかかる費用とリスクは、全部自分で負いなさい。悪いけど、あんたのその、叶えられそうにない夢に、あたしは投資できない」
「…………」
何も、言い返せなかった。あたしはまだ、ただの高校生だった。自分でお金を稼いだこともない、食べさせてもらっているだけの、ただの子どもだった。
「大学に行きなさい」
「…………」
「返事は?」
「…………考えとく」
あたしはそれだけ答えるので、精一杯だった。お母さんの目は、本気だった。冗談を言ってる様子は、当然ながらこれっぽっちも見えない。
視線を外して、背中を向ける。再びおせんべいを齧る音をビージーエムにして、あたしは立ち去って部屋へと向かった。
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